いい歳こいた大人の無邪気、子供のような大人。それは時に狂気となりうることを心に留めておいて下さい。

私論展開部屋, 子供のような, 無邪気

む‐じゃき【無邪気】

1 素直で悪気がないこと。いつわりや作為がないこと。また、そのさま。
「無邪気ないたずら」「質問に無邪気に答える」
2 あどけなくかわいらしいこと。また、そのさま。
「赤ん坊の無邪気な笑顔」
3 思慮に欠けること。また、そのさま。
「両親や教師は○○○にもこの事実を忘れている」

無邪気(むじゃき) の意味

だそうです。

しかし、私は言いたいのです。

いい歳こいた大の大人が無邪気な様など、時と場合によってはただの凶器であり狂気でしかないと。

例えば、皆様。
小学生ほどの歳の子が、春先に菜の花を片手にひらり舞うモンシロチョウを、楽しそうに追いかけていたとしましょう。
まあ、なんと可愛らしいく愛らしい。と、目にした人々は思うでしょう。

しかし。

それを、己が姿で。またはあなたの隣にいる配偶者、更には親の姿で想像をしてみてください。

狂気です。危険です。間違いなく通報されます。
親の年頃の方に関しては、徘徊老人として扱われあわや病院行きの刑に処される事もあり得ます。

なんと恐ろしい…

なんて言うのは、極端な話w

周りに1人はいませんか?子供のような人。

純粋といえば聞こえはいいかもしれませんが、それなりの年数生きてきているはずなのに、明らかに自分より年上なのに、欲に忠実で我が身の事だけを考え、それゆえに傷ついている人たちがいることにすら気づかずに、孤独と孤立に極端に憶病で、保身と押しつけと勘違いと自己肯定のみで生きている人。

そーゆー人のことを言いたいのです。

なぜ彼らは「悪気がないから…」で済まされるのか?

いやいや、そこには周囲の人たちの多大なる「合わせる努力」があってこそだと思うのです。

しかし、彼らはそれで良いんですかね?

人様に気を使わせて、合わせてもらって、陰口叩かれながらも我が道を通す事が、果たして本当に彼らの幸せなのか?と私はいつも思うのです。

確かに「自分の形」を持つのは素晴らしい事だと思います。
しかし、それが他人からの配慮や、気遣い、実はかなりな確率で疎まれている事を彼らは知らない。
ある意味本当の幸せ者、というべきでしょうか?それとも芯からの不幸者か…

しかもそーゆー人に限って「幸福に貪欲」なのです。

彼らの欲はとどまることを知らない。「幸福の亡者」。

実は恵まれていることに気付いてないんです。その点は不幸ですね。
がんじがらめにしてるの、自分自身なんですけどね。

でも、何だかんだでそーゆー人たちって、妙な力を持っていて、周囲から人が完全にいなくなることってないんですよね。
本当の意味での理解者なのか、ただ単に合わせてもらっているだけなのか…それは定かではないですがw
ただ、合わせるほうは本当にきついw

私は、結構そーゆー人たちに振り回されてきました。
お陰様で人との交流のそういったことにも敏感になりました。

いつも思う。「人の振り見て我が振り直せ」とはよく言ったもの。

「ああはなるまい」という学びをいただいたと思えば、これも一つの経験としてありがたく頂戴することもできるというものです。

可不可を決めるのは、自分次第。

それでも「あ、もう無理だな」と思った時には、じわっとフェードアウトしましょうかねw